或る非日常の話

羞恥の感情よりもはるかに強烈な勢いで叩き付けるように襲い来る快楽が、いつしか思考の全てを占拠していた。

「…っ、ふ!…」
薄暗い部屋の中。ひっきりなしに上がる、自分のものではないような声がいやに耳についた。
少しでも抑えようと唇を噛むが、口内に更に甘く快感を呼び寄せる毒のような血液の味が広がるだけだった。

すると突然、うっすらと血が滲むそこに自分のものではない唇が覆いかぶさり、熱くなった舌で鉄の味をぬぐってゆく。
自分のものよりも、熱く、分厚い感触のソレ。ねっとりとなぶられて、ピクリと腰が浮いてしまう。
すると見透かしたかのように、覆いかぶさる影がゆるく微笑ったような気配がした。

「っあ……ひ……ッつ!」 
唇はそのまま下へと降りて、顎を舐めてから、再び首筋へ。
男にしては細い、なだらかな曲線を帯びるそこを何度も何度も往復する。
ちゅ、ちゅ、と音を立てて繰り返されるソレは、まるで騎士が姫に許しを請う儀式のようだった。

部屋中に漂う気だるげな艶やかさとは対照的な行為。
真摯な瞳に射抜かれて、けれどその熱い手で高められて。
背徳的な快感に、千景の背はぶるりとしなった。

「ココ、弱いのか?」
耳元で囁かれ、この場にはそぐわないほどの優しげな低音が脳髄を焼く。
「……ぁ、……っ、あっ!」
ぎし、ぎし、とスプリングが軋んで、まともに喋れないオレの代わりに返事をする。
するとまた微かに大きな影が微笑った気がして、少し悔しくなる。
抗議の意を込めて上に被さる男を睨み付けてみるが、うっすら涙の浮かんだ瞳ではなんの威嚇にもならなかったようで、額に優しいキスがひとつ降ってきただけだった。


「……そういうの、逆効果だからやめたほうがいいぞ。」
くつくつと笑いながら髪を撫でられる。
子供にするようなその仕草にムッとして抗議しようとしたが、それは首筋に感じた痛みで遮られた。


「ッ?!……あ、…うぁっ!」
がぶり。大きく口を開けて、門田が首筋に噛み付いている。
普段は優しげにゆるく弧を描いているソレが、酷く獣めいて牙をむき、白い肌を齧っている。
このまま喰われてしまうのではないかという陳腐な考えに肩を強張らせれば、ぎらついた目と視線があってぞくりとした。
―野獣の目。捕食者の目。
いつも温厚そうに微笑むこの男が、セックスの時にだけ見せる、獣<おとこ>の目だ。


(―ああ、来る―――)


粘ついた唾が、喉に絡む。
視界が揺れて、反転して、真っ暗になる。
焼けるような熱さを入り口に感じるまで、数秒にも満たないその時間が、千景には永遠のように長く感じられた。


「……っ!」


身体を貫かれるというよりも、 串刺しにされるかのような感覚。
一息つくまもなく追い立てられて、意識が沸騰する。
もはや抑える事も叶わなくなった嬌声と荒い息遣いだけが世界を支配していた。

門田との交わりはいつもこうだ。
どろどろに甘くて、優しくて、それでいてぐつぐつと溶かされるように熱い。
普段なら余裕たっぷりに女の子をリードしてみせる千影の何もかもを暴いて、ただの男に―…ただの獣にさせる。


余裕のないセックスは嫌いだった。
がつがつと奪い合うような交わりは、まるでただの性処理のようで、相手に対して失礼だと思っていたからだ。
”セックスは愛情を過不足なく与えあうもの”、これが千影のスタイルで、実際、これまでもそうしてきた。
だがどうだろう。

「……ょう、へい、さ…っ」
「千景……ッ、う」
「〜〜〜っ、あっ…!ん、…ああッ、」

それしか知らないように名前を呼び合って。
狂ったように激しく奪いあって。
それでも、 こんなに気持ちが伝わる交わりを、千景はほかに知らない。
まるで、言葉など交わさなくても、全身で愛していると言われているような。

「………かげ………、だ」

やがて真っ白に意識が塗りつぶされる頃、
耳元でちいさく、でも確かに聞こえた一言を最後に千景は意識を手放した。




* * *



傾けた砂時計のように、夜が終われば朝がやってくる。
例によって隣に眠る男より早く起きた千景は、男を起こさないようそうっと身を起こす。
もぞもぞと手探りで下着やズボンを身に付け、最後にベッド下に落ちていたカッターシャツに袖を通して襟を正した。

「……ふああ、あ」

それだけで非日常の名残はあっという間に消えてしまった。
今、知り合いに会ったとしても、まさか誰も千景と門田がこんなことをしていたなど考えもしないだろう。
ふっと笑って、千景はごわつく布越しにその名残にお別れのキスをした。


非日常は、いつまでも続かないからこそ非日常たる。
−そしてだからこそ、ヒトはそれが大切で愛しく感じるんだ。

いつだったか、誰かが言っていた。
名前も知らない紅い瞳のその男の言葉は、面白いほど今の千景の胸にストンと落ちた。


「……さて、オレらの日常を始めますかね」

朝日を存分に浴びて、伸びをする。
その影はやがて朝の喧騒に飲み込まれて、消えていった。


end.